英語は手段か目的か、はたまた単なる習慣か
私は仕事柄英語を使うこともあり、辞書を買うこともあり、そしてソレ関連のキーワードで良く検索する。そのせいだろうか、webで表示される広告で英語学習系の広告によくお目見えする。おおかたは、簡単に英語をマスターできることを謳うもので、〇週間で英語をマスターとか、英語は〇個の文章パタンで話せるとか、〇個の単語で英語はマスターとか、である。
これら英語の学習法というか、楽してマスター系の広告は、言ってみれば楽してダイエット、楽して筋肉質の体、楽して金持ちになどの広告と大差なく、「そうなりたいけどそうなるには一般的には努力が必要で、でも俺はその努力は嫌で、できることなら楽して達成したい」という人の怠惰な面にササる広告である。
楽したい気持ちが、良い意味でモチベーションとなり文明を発展させるわけだし、私は楽したい気持ちを全面的に悪いとも思わない。だが、人は根本的に怠惰な面を持っていて、それをコントロールしないとカモにされる危険性が増すのも事実だろう。例の簡単に英語マスター系の広告が、人をカモろうとしているのかは知らないし、本当に効果があるのかもしれない(私は試していないから分からない)ので、ここではソレ系の広告の是非は議論しない。私が話したいのはゴールとプロセスである。
私の周りで英語が上手な人は、そのような楽してマスター系の方法は何も使っていない。むしろ、学習のプロセスを楽しんでいる。つまり、それ系の広告や普通の人は「苦労」と認識しているプロセスであり、できればすっ飛ばしたいそのプロセスを楽しんでいるのである。結果(英語マスター)は、勝手についてきていて、いやむしろその様な人は自分が英語をマスターしているとは認識すらしていないようにも見える。山頂に立つことを楽しんでいるのではなく、登山のプロセスを楽しんでいて、その結果頂上に立てようが立てまいが、あまり気にしていない風なのである。いやむしろ、英語習得レベルに関しては明確な目的・ゴールがあるものではなく、食事や移動のように生活の一部と捉えていて、その結果別の何かができる(英語を使って別の何かをする)ことがゴールになっている風である。だから彼らは、食事をとるように、コーヒーを飲むように、ごく自然な日常作業をやるように、英語力を蓄積するプロセスを実行しているのだろう。
これら英語の学習法というか、楽してマスター系の広告は、言ってみれば楽してダイエット、楽して筋肉質の体、楽して金持ちになどの広告と大差なく、「そうなりたいけどそうなるには一般的には努力が必要で、でも俺はその努力は嫌で、できることなら楽して達成したい」という人の怠惰な面にササる広告である。
楽したい気持ちが、良い意味でモチベーションとなり文明を発展させるわけだし、私は楽したい気持ちを全面的に悪いとも思わない。だが、人は根本的に怠惰な面を持っていて、それをコントロールしないとカモにされる危険性が増すのも事実だろう。例の簡単に英語マスター系の広告が、人をカモろうとしているのかは知らないし、本当に効果があるのかもしれない(私は試していないから分からない)ので、ここではソレ系の広告の是非は議論しない。私が話したいのはゴールとプロセスである。
私の周りで英語が上手な人は、そのような楽してマスター系の方法は何も使っていない。むしろ、学習のプロセスを楽しんでいる。つまり、それ系の広告や普通の人は「苦労」と認識しているプロセスであり、できればすっ飛ばしたいそのプロセスを楽しんでいるのである。結果(英語マスター)は、勝手についてきていて、いやむしろその様な人は自分が英語をマスターしているとは認識すらしていないようにも見える。山頂に立つことを楽しんでいるのではなく、登山のプロセスを楽しんでいて、その結果頂上に立てようが立てまいが、あまり気にしていない風なのである。いやむしろ、英語習得レベルに関しては明確な目的・ゴールがあるものではなく、食事や移動のように生活の一部と捉えていて、その結果別の何かができる(英語を使って別の何かをする)ことがゴールになっている風である。だから彼らは、食事をとるように、コーヒーを飲むように、ごく自然な日常作業をやるように、英語力を蓄積するプロセスを実行しているのだろう。
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